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ワシントンD.C.(Washington, D.C.、正式:コロンビア特別区、District of Columbia)は、人類の歴史を通して規模と範囲で他に類を見ない公共博物館、国家の最も貴重なモニュメントや記念館の大部分を占める、とらわれない施設が集積している、アメリカ合衆国の首都であり、政府の3部門の所在地である。連邦議会議事堂、ワシントン記念塔、ホワイトハウス、そしてリンカーン記念館の合間のナショナルモールの景色は、世界で最も豊かで強力な国家の象徴として世界的に有名である。
モール以外のコロンビア特別区は、世界的な大都市にふさわしい買い物、食事、そしてナイトライフを持った、退屈で危険を伴う都市として、その古い評判を過去20年間で払拭することになる。訪問者は、新しく、エキサイティングで、明らかにコスモポリタンで国際的な都市を発見することになる。
実質的にD.C.の旅行者のすべては、街の重要記念物やスミソニアンの博物群の多くを有する美しい長く続く緑地庭園、約3キロ(2マイル)強のナショナルモールを訪れる事になるが、都市自体は、記念建造物、政治またはホワイトハウス、新古典主義の建物とはほとんど関係なく活気に満ちた大都市である。スミソニアンは"見逃す事ができない"が、都市を出歩けるようになってやっと本当のD.C.を知る事になる。
| ダウンタウン (ナショナルモール、イーストエンド、ウエストエンド、ウォーターフロント) すべての中心である。ナショナルモール、D.C.の主要な劇場地区、スミソニアン協会や豊富な非スミソニアン博物館、高級料理店、チャイナタウン、ベライゾンセンター、コンベンションセンター、中心的な商業地区、ホワイトハウス、ウエストポトマック公園、ケネディセンター、ジョージワシントン大学、美しいタイダルベイスン (Tidal Basin) や新しいナショナルズ公園 (Nationals Park) 。 |
| 北中部 (デュポンサークル、ショー、アダムス・モーガンとコロンビアハイツ) D.C.の最も多様でトレンディな地区、ライブミュージックやクラブの最も人気のある地区だけでなく、多数のレストラン、ハワード大学、ブティックでのショッピング、見事な大使館群、リトルエチオピア、Uストリートのジャズやたくさんの魅力あるホテルがある。 |
| 西部 (ジョージタウン、アッパーノースウェスト) 権威ある裕福な側面、活動的なナイトライフ、植民地時代の建築や高級料理店があるジョージタウンの歴史的な小さな街、国立動物園、壮大な国立大聖堂、素朴なダイバートンオークス、D.C.の大規模な最高級ショッピング、より重要な大使館街、アメリカン大学や複数の魅力ある飲食店街がある。 |
| 東部 (キャピトルヒル、ノースイースト、アナコスティア) 議会議事堂や議会図書館から出発し、過去の壮大なユニオン駅や歴史的なキャピトルヒル地区が扇形に広がり、あまり頻繁に訪れないギャロデッドとカトリック大学、歴史的なアフリカ系アメリカ人のアナコスティア、野球の殿堂周辺のD.C.の"リトルバチカン"、巨大な国立植物園、ケニルワース水生園、アトラス地区の風変わりなナイトライフ周辺地域や少数の他の偏心地区がある。 |
[編集] 歴史
ワシントンD.C.は、政治を支え、政治による、政治のための人工的な特別な都市である。最初の首都でなく、フィラデルフィアが何年も前に政府に管理されている(また首都は独立戦争の間、イギリス兵から逃れるように、ボルチモア、ランカスター、ヨーク周辺に移転している)。しかし、議会はプリンストンへ逃げ出す兵士を追いかけ、ペンシルバニア州の州知事の暗黙の処罰に不満を抱く米軍兵士を追うように、"自由の揺りかご (Cradle of Liberty)" に熱意を失う事になる。
放浪政府はアナポリス、トレントン、そしてニューヨーク市にも短期間置かれていたが、南部州が北軍の中心として扱われておらず、首都は当時の強力な州政府から独立する必要があると前々から明らかとなる。ジェームズ・マディソン、トマス・ジェファーソン、アレクサンダー・ハミルトンは、中部大西洋の主として居住者のいない土地に置く事に歩み寄り1790年に合意する。正確な位置は、ジョージ・ワシントンに任せ、マウントバーノンにある彼の自宅の隣に置く事を検討することになる。ピエール・ランファン (Pierre L'Enfant) は、州の管轄外となる新しい都市計画をまかされる事になり、彼の監督下で迅速な建設が行われた後、若い政府が1800年に移転することになる。1812年の戦争中(イギリスが焼き討ちを行ったとき)にバージニア州リーズバーグに一時的に移転した事を除けば、米国政府はコロンビア特別区に到達し基礎を築くことになる。
ポトマックとアナコスティア川の合流地点で菱形に分かれるこの新しい都市は、港湾都市として成功するよう作る事を目標としたジョージタウンとアレクサンドリアの2つの現存する小さな都市を結ぶ事になる。歴史はこの失敗を判断する必要がある。初期の頃の元々の両港は、中部大西洋の主要輸出品「タバコ」の貿易を積極的に行っている。港湾都市の中心としてさらなる発展を遂げようと、チェサピークとオハイオ運河がジョージタウンの横に建設されたが、高価な事業であったため、ボルチモアの深水港に接続して、新しいより効率的なボルチモア&オハイオ鉄道と張り合う事ができず、失敗に終わる。ポトマック川の堆積の増加後、実質的な停止状態に港の機能が陥る事になる。
アレクサンドリアの港は、ジョージタウンを優遇した政府の計画以来、不釣り合いに苦しむ事になる。連邦政府の心配と相まり、特別区内の奴隷貿易を禁止することになる、これは、1846年にバージニア州へ戻るポトマック川の西側の返還につながり、このようにして、都市の整った菱形を台無しにし、連邦の管理下でメリーランド州から得られた唯一の地域を残すのみとなる。
この時点からの国の首都は、設立当時の胸躍る興奮を欠き、北軍と南軍の境界線上での妥協の位置は、南北戦争中の不安定さを指し示している。メリーランド州政府は南軍に共感し、リンカーン大統領は、州政府全体の審理なしに簡単に停止したり保留したりしないよう離脱の思考(首都が囲まれて残ってしまう)を防止することになる。手に負えないボルチモアを食い止めるため(騒々しい住民が多く、ボルチモアの人々は、それほど南軍に好意的でない)、大統領は、中心業務地区の正面に大砲を向けるよう、フェデラルヒル地区に備え付けるために大砲を送り出すことになる。資産、行政官、軍隊、技術者の圧倒的な流入と戦争中の首都を守る砦は、忙しい都会の中心へ活気のなかった首都を転換させることになり、� ��内最大級の大都市のひとつに次の150年間をかけて成長するよう定められる。
[編集] 住民
ワシントンD.C.の文化は、黒人と白人、出身者と短期滞在者、東部と西部の間の分類によって少なからず定義される。他の都市に比べて、比較的少数の住民が生粋のワシントンD.C.生まれである。最新の国勢調査の数字は、人口の約50%が過去5年間に引越ししたと報告している。一時的な居住者は、政府関連の仕事と好景気のためにワシントンD.C.に惹き付けられた、圧倒的多数の専門職、若者、白人、裕福で高度な教育を受けている人々である。これは、地域社会に深く根ざし、アメリカ合衆国の最も貧しい同士の都市ランクのいくつかの地域、最も疎遠で、公立学校や暴力的な住宅プロジェクトにおける深刻な問題に悩まされ、恵まれない、多くの社会経済的多様性を持つ、地元のアフリカ系アメリカ人の人口とはまったく対照� ��である。
別名チョコレートシティ (Chocolate City) のワシントンD.C.は、長い間全国的なアフリカ系アメリカ人の文化の中心地として主要な黒人の都市となっている。アメリカ合衆国で初めての黒人を主体とする都市で、1920年代まで(ニューヨークが上回るまで)、最大の黒人人口を有する都市である。Uストリートは、ストリートの至る所のクラブで演奏をしていたワシントンD.C.生まれのデューク・エリントン (Duke Ellington) がいたブラック・ブロードウェイ (Black Broadway) として知られている。特別区は、廃止論者フレデリック・ダグラス (Frederick Douglass) が拠点を置く、公立学校を統合したアメリカ合衆国の最初の都市であり、近隣で容認の拠点、そして人種間関係の進歩主義の両方を兼ね備えたということで、南部を離れたアフリカ系アメリカ人の人々にとって長い間魅力的な目的地となっている。ワシントンD.C.には、アメリカ合衆国の最も重要な歴史的黒人大学のひとつ、ハワード大学も置かれている。
ワシントンD.C.、特に都市の範囲を超えた大都市圏では、外国生まれが人口の3分の1と途方もなく、国際的だと印象を持つことになる。最大の移民グループは、主にエルサルバドルからとなる、中央アメリカ地域からである。ラテン系の文化は、混ざり合った都市の多様な文化のすべてを知る事ができる両地区マウントプレザントとコロンビアハイツ内に特別区内の本場を見いだす事になる。また、特別区は、エチオピア料理に愛着を与え、特別区自身リトルエチオピアの中心地であると知る事になる、非常に大きいエチオピア人社会を持つ、大きなアフリカ系移民の人口も持っている。国際的な文化は、大きな外国人専門職の人口だけでなく、国際関係分野の仕事を探している国中からのアメリカ人のためにもかかわらず、うま� �移民社会を超えて広がっており、簡単に言えば、特別区が全米で最も国際的な街だといえる。
地方政治、そしてコロンビア特別区と連邦政府関係の地元の憤慨は、おそらくすべてのワシントン市民同士を結合する接着剤となっている。コロンビア特別区は、基本的に米国議会の管理下に置かれている。1973年以来、特別区の居住者は、市長だけでなく、D.C.市議会へ代議員を選出することができるようになる。しかしながら、米国議会は、特別区で可決された法律を覆す権利を持ち続けている。特別区内に居住する約60万人の市民は、特別区が"州"でないため、米国議会の代議員に投票する権利を有していない。特別区の住民が米国議会に投票できない負担を課されている事を訪問者に示唆するものとして、特別区のナンバープレートは、標語 "代表なき課税 (Taxation Without Representation)" を載せており、同じ標語は、革命戦争前にイギリスの支配を糾弾するために使用されている。
[編集] 気候
ワシントンD.C.の気候は、おそらく大規模な官僚支配に失望しているという意味で湿地の上に都市が築かれたと、悪い風評を持っている。結局、誰もワシントンD.C.に住みたくないと思った場合、あのとき、あまりにも多くの官僚は存在しえなかったはずである。
ここは、すべてが巨大な壷である。ここには湿地はなく、気候は実際に年間を通じてとても素晴らしさがある。比較的穏やかな気温の満足は、ひどい、不可解な湿度によって完全にかき消されており、首都の悪天候の神話は、ほとんどが夏季の最高気温時に訪れる事からきている。子供のように汗をかく7月のモール内の真夏日には、絶え間なく不平をこぼし、可能な限り多くの時間を室内で過ごしたいと思うものである。この時期は訪問する最も最悪な時期である。